室町幕府の3代将軍だった足利義満(よしみつ)は、
明(みん)の皇帝から「日本国王」の冊封(さくほう)を受けた。
それは確かな事実だ(正式には永楽帝から1404年)。この“国王”の地位を「天皇の上」(今谷明氏)と捉える見方もある。義満は天皇を超える“君主”としての立場にあった、と。それが事実なら、歴史上、天皇以外の存在が、「国家の公的秩序の頂点」に位置した時代があったことになる。だが果たしてそうか。これについて、今の学界では批判説が有力だ。「義満のめあては明との貿易にあったと考えるべきだろう。明は『人臣(じんしん=臣下)に外交なし』を方針とし、国王以外には一切貿易を許していなかったから、明との公式な貿易を望むなら、明から『日本国王』に認定されることがどうしても必要であった。義満の遣明使節に博多商人肥満富(こいつみ)と遁世者祖阿(そあ)
という、一国の使者としてはおよそ器量不足の、しかし貿易のエキスパート
とみられる人物が選ばれたのも、義満の真意がどこにあったかを率直に
物語っていよう。…『日本国王』号が天皇の権威に対抗しうる条件など、
当時の日本国内にはまったく存在しなかったのである。
…当時の室町幕府首脳部は…義満は偽『日本国王』であるとの見解を
はっきり打ち出している」(桜井英治氏)「義満…が日本国内で『日本国王』を標榜して、その権威を
振り回した事実はない。
『日本国王』という『肩書』を義満は通用させなかったし、
またその『肩書』は権威として通用しなかったのである。
…明から『日本国王』に任じられたからといって、当時の権力・権威の
構造からして、義満が室町国家の王権を掌握したということにはならない」
(伊藤喜良氏)「義満が求めたのは一にも二にも貿易の許可であった。
…明の皇帝から『日本国王』と呼びかけられ、『冊封』を受けたことで、
義満の政治的地位に何らかの影響があったかと問われれば、否(いな)と
言わざるを得ない。
つまり国内向けに『日本国王』を称したことはなく、廷臣も大名も
『日本国王』として意識したこともない」(小川剛生氏)この点について、室町幕府の6代将軍・足利義教(よしのり)の
政治顧問だった三宝院満済(さんぽういんまんさい)が、天皇と室町幕府の
トップとの関係について、興味深い発言をしていた。明の皇帝からの書面を受け取る際に、恭しく拝礼する作法について、
わが国の真の君主(天皇)がそのような丁重な作法をするのは問題。
だが、大臣以下がそのような作法をするのは古くから行われている。
相手が勝手に『日本国王』と思い込んでいるに過ぎない室町幕府の
トップがそのような作法をしても、実際には君主ではないのだから
何も問題にはならない、と(『満済准后日記〔まんさいじゅごうにっき〕』)。そもそも、義満より前には後醍醐天皇の皇子・懐良(かねよし)親王が、
勿論わが国の君主ではないのに、明の皇帝から「日本国王」に封じられていた
(1371年)。
義満が明から「日本国王」に任じられたから天皇を超える真の君主だったなどと、
現代の一部の歴史学者のような“そそっかしい”理解の仕方を、
同時代の人は誰もしていなかった。【高森明勅公式サイト】
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